舞台裏に訪問客

 聞き慣れた声に全くいつもと異なった名前で呼ばれた、そんな経験のある人間はこの世に一体何人居るのか。それは或いは単なるお巫戯けかも知れないし、何か2人の間で関係が変わったのかも知れない。もしかしたら相手がとても声真似の上手な別人かも知れないし、双子や三つ子ということだってあるだろう。
 しかし、そのどれでもない確証があったとしたら?それは一体どういうことなのか。現在その当事者である平和島静雄はそこまで考えたわけではなかったけれど、彼の覚えている違和感は正にそれだった。
「静雄さんじゃないですかあ。貴方みたいな有名人に会えるなんて、甘楽ちゃん感激ですよう?」
 気持ちの悪いものに直面してぞわりと肌が粟立つ感覚のことを、鳥肌が立つと言う。
 静雄は彼のありったけの記憶をかき集め、目の前の人物に双子の妹、若しくは姉という存在が居たかどうか考えていた。しかしいくら考えても思い付かない。確かにこの人物には双子の妹が居るのだが、それはその2人の妹同士が双子なのであって、この人物と瓜二つの顔立ちをしているわけではない。
 いやそもそもからして、この人物が別人であるなどということは有り得ないはずなのだ。静雄の直感はこの人物が見知りの人間であると言っており、その直感はことその人物に関しては間違うはずがないのだから。
「――臨也。俺の前で巫戯けていられるなんざ、こりゃまた大層な余裕だなあ?」
 だから静雄はまず相手が自分をからかっているのだと判断して、彼が知っている人物の名を呼んだ。
 折原臨也という、彼の天敵の名前を。
 しかし、臨也の姿をした目の前の人物――甘楽、と言っただろうか――は不思議そうに首を傾げただけだった。
「臨也?情報屋の折原臨也さんのことですか?確かに私は臨也さんからよく面白い話を教えて貰いますけど、別人ですよう?」
 そんなに臨也さんに似てますかねえ、と呟く甘楽。そして話は最初に戻る。
 臨也が自分をからかっているのではないか、その疑念はもう殆ど静雄の中から消え去っていた。何故か。彼の直感が、目の前の人間は臨也だと叫ぶ一方で、同時に臨也ではないと確信していたからだ。繰り返しになるが、静雄の直感はこと臨也に関しては間違うはずがない。だから、静雄は自らの中の相反する正しいはずの認識に違和感を覚えざるを得なかった。
 静雄は目の前の「臨也にしか見えない人物」に対して拳を上げていいのかどうか決めあぐね、さりとてこういったのよく分からない事態について深く考える質でもなかったので、結果としてストレートに問うことを選ぶことにする。
「誰だ、手前。」
「だからあ、甘楽ですってばー。」
「名前はもう聞いた。そうじゃねえ。だから、手前は、臨也の何なんだ?」
 一語一語を切って、語調も強めの問い。静雄の低い沸点に今にも到達しようかというような、聞く人が聞けばその場で土下座して答えてしまいそうな様子だったのだが、対する「甘楽」はしかしけろっとした顔で首を傾げ、困ったように笑っただけだった。
「臨也さんは私の知り合いで、それ以上じゃないですよう?さっきから臨也さん臨也さんって、そんなに私を臨也さんにしたいんですか?きゃ、もしかして実はーみたいな。だめですよう、乙女の前でそんな話!」
 すらすらと、それこそまるで臨也のように出てくる甘楽の軽口。その大半は静雄にとって理解出来ない文言ではあったのだが、それでもあまり良くないことを言っているという位は分かったらしかった。
「手前、甘楽っつったか?いやもう甘楽だろうが臨也だろうがどうでもいいんだけどよ、取り敢えずその口――」
 パチン
 閉じろ、そう言ってその胸倉を掴み上げようとしたその時、静雄の耳元で指を弾く小気味良い音が響いた。思わず手を止めて目の前の顔を見る。その瞬間、静雄は自分の中に付き合い慣れた、あのどうしようもない嫌悪感が湧いてくるのを感じた。同時に確信する。
 今のこいつは、折原臨也だ、と。
「ダメだよ、シズちゃん。甘楽は何も知らないいたいけな女の子なんだからさ。手をあげちゃ。」
 臨也はあの見慣れた嫌らしい笑みを浮かべ、まるで駄々っ子をあやすような口調で静雄に語り掛けた。静雄はやはり臨也が自分をからかっていたのだと、先ほどの自分の判断をあっさり捨てた。何より、目の前の光景がその証拠だ。臨也がいる。静雄にとってそれ以上の証明は不要だった。平和島静雄にとっての折原臨也とはそういう存在だった。
 静雄の怒りのボルテージが簡単に振り切れ、先ほど一瞬止まった拳に再びスピードが乗る。
「死ね臨也あああ!」
 どがああん、と臨也がそれまで背を付けて居たはずのコンクリート壁が粉々に砕け散った。静雄が反射的に振り返ると、あの笑みを若干の苛立ちに変えた臨也が、ナイフを閃かせて立っている。
「器物破損。よく捕まらないよね、シズちゃん。」
「なら手前を壊しても捕まらねえよな、ノミ蟲よおおっ」
 みしり、と鉄の棒にあるまじき音が響き渡る。街灯を支える身長よりも長いスタンドがひしゃげ、静雄の手の形に変化した。
「相変わらずの化け物め。」
 臨也の憎しみの込もった声に応えながら、静雄が街灯を大きく振り回す。
「そういう手前はいつもいつも俺を馬鹿にしやがってッ」
 風を大きく切る音と共に街灯のちょうどライトの部分が臨也を叩き付けようとする。臨也はそれをワンステップで避け、冗談混じりに首を傾げて見せた。
「今日俺何かやったっけ?」
「甘楽とかっつって巫戯けたこと言いやがってよお、なあ?分かってて知らねえ振りしてたんだろうが。」
 臨也を仕留め損なって地面にめり込んだ街灯を引きずり出しながら静雄が言う。臨也はああ、と手を打ってナイフを持った手を顔の前で振った。
「違う違う、いや半分正解なのかな?」
「ああ?」
 相変わらず訳の分からないことしか喋らない臨也に思わず静雄の手が止まる。ここぞとばかりに臨也がまくし立てた。
「『甘楽』にとっては本当に『臨也』は単なる知り合いだよ。それに甘楽にとってのシズちゃんは本当に『静雄さん』だ。いやあ彼女のテンションには偶に俺もついていけないことがあってねえ。おかげで女の子達に演じさせるのも一苦労。容姿も変われば楽なのにね。」
「…どっちも手前だろうがよ。」
「いいや?『甘楽』は『甘楽』、『奈倉』は『奈倉』、『クロム』は『クロム』、『臨也』は『臨也』、みんな違ってみんな良い、なあんてね!スイッチ一つで切り替え可能なんてなかなか万能じゃない、俺?さて問題です。」
 臨也は静雄の、そして他の彼をよく知る人物の皆見知った凶悪な『折原臨也』の表情をその顔に浮かべた。
「今の俺は誰でしょうか?」
 静雄は直ぐには答えず、無言で街灯を再び持ち上げた。長身の男がそれよりも長い街灯を振り上げるその姿はさながら鎌を振り上げる死神か、若しくは鉄鎚を振り下ろそうとする無慈悲な神のようであったかも知れない。
 そうして、平和島静雄という絶対の「力」はたった一言で判決を下した。
「興味ねえ。」
 勿論静雄とて、今の大振りで臨也を仕留められたなどとは考えていない。街灯を持っていない側の足を軸に大きく回転させ、背後に叩き込む。
「手前が誰だろうと大元が同じなら一緒だろ?」
「相変わらずの暴論だねシズちゃん。」
 臨也は街灯が破壊した道の直ぐ脇に立ち、それでも欠片が飛来でもしたのか頬に僅かに浮かんだ血筋を片手で乱雑に拭い、ナイフを真っ直ぐに静雄に向けて、顔を上げた。静雄ですら一度も見たことのない表情を浮かべた顔を。
「本当にシズちゃんは、俺の一番当たって欲しくない予想に忠実だ。」
 静雄の手が思わず止まってしまうほどに、その表情は『折原臨也』の表情ではなかった。
 縋るようなその表情が一体誰のものなのかを静雄が知るのは、もう少し後の話だ。




恣意的多重人格臨也君。自分で作り出した人格を独立させて、演じるのではなく切り替える、成り代わる臨也君です。主人格の臨也君だけがそのスイッチを動かせるみたいな…話すと長くなるので更新情報に吹っ飛ばしますが。
色々表現したいことがあったのにどうも文章力が追いついていない気がします。不完全燃焼。むむむ…
ちなみに、一応「関係者以外〜」の前の話という設定をぼんやり考えていたりしますがあんまり関係ありません。