化け物心理学

※新羅が臨也君について色々語ってるだけ。そこはかとなく静臨と新セル。






 そもそも、「人を愛する」という時点で人としておかしい。昔、セルティに罪歌の人間愛について語ったことがあったが、罪歌は刀なのだ。異常なのも当たり前で、むしろ意志を持った刀という視点から考えればその方が正常なのではないかとすら思う。しかしだ。これの主体を人間に置き換えると、途端におかしくなる。異常になる。常軌を逸する。
 つまりはそういうこと。単純明快、簡単明瞭。人外を愛する自分よりも、圧倒的に、徹頭徹尾、折原臨也は異常だ。
 折原臨也。丁度良い、今日はこの異常な同窓生のことを少し話すこととしよう。平和島静雄とは対照的に頭脳労働を主とし名前負けておらず、そして――平和島静雄以上に誤解され易い男のことを。

 折原臨也。この名前を出すと、彼を知っている人間の大概が顔を歪める。その反応に疑問はない。確かに彼は、静雄以上に二度と関わりたくない人間には違いないだろう。静雄は、その暴力さえ理解出来れば中身は至って普通の…ともすれば、自分よりも普通の人間だ。人を愛することが苦手なだけの普通の人間。感情に素直過ぎるだけの普通の人間。
 しかし、臨也はそれとは真逆をいく。肉体的には至って普通。そして、中身は常に異常。この意味が分かるだろうか?中身が異常な人間と、どうすればまともな意志疎通が出来るというのか。勿論、中身が異常な人間というのは他にも幾らでも居る。しかし、常に異常な人間はというと、自分は彼以外に出会ったことがない。
 ――と、こんな話をすると、彼を極悪人とか悪意の塊とか言う人が居るのだが、それは誤解だとはっきり言っておこう。まあそんな誤解をされるのも当然と言えば当然なのだが、残念なことにそれは誤解だ。そして同時に、それは彼が厄介極まりない理由でもある。
 折原臨也は、人間が好きだ。愛している。特定の誰かではなく、人間という種族を愛しているのだ。だから、人間の全てを知りたい。善意も、悪意も、弱さも、強さも、平等に全て愛するからこそ、平等に全てを見たい。しかし、人間は簡単には悪意を見せないし、壊れない。だから臨也は、それを見るためにちょっとした小細工をする。見るためだけに、仕掛ける。それは悪意ではない。興味だ。
 興味だけで動く。それは、悪意よりも厄介な理由だ。彼がもし悪意で動くなら、自らの予想を覆されることは明確に不本意な結果な筈。しかし、彼は何かを企みながら、同時に予想を覆されることを期待もしている。そして、常に新しい人間の一面を垣間見ることを夢見ている。だから彼は、思惑通りにいかずとも笑う。何が厄介か。それは、如何なる結果になろうと彼にとっては満足となってしまうことだ。彼は人間が好きだ。人間に興味を持っている。だから人間の行う全てに不満がない。それが、折原臨也の唯一無二にして空前絶後の異常である。
 ――故に。彼は、自分が他人から嫌われるようなことをしていると理解しながらそれを実行に移す。彼は人間を愛しているが、愛しているが故に人間から愛されることはとうに諦めているのだろう。自分も様々な人間を見てきたが、ここまで孤独を享受している人間は他に知らない。臨也自身も言うように、人間は誰かと繋がりながら生きる。繋がりながらでしか生きられない…本来は。繋がることを放棄した人間は、もう人間とは呼べないのではないか。そんな異常な例外が、折原臨也という男なのだ。
 思えば、人を愛せないが愛に飢えている平和島静雄と、人を愛しているが愛されないことを認める折原臨也は驚く程に対照的で、驚く程に噛み合っている。なるほど、両極端だ双璧だ、犬猿の仲だとはよく言ったものだ。魑魅魍魎か有象無象か、いずれにせよ医者である自分としては興味深い。
 ――まあ自分は、セルティと繋がっていられるなら他がどうなろうと構わないのだが。さて、今日のところはここまでにして、愛するセルティの下へ帰るとしよう。