新生ジンテーゼ

 その日の俺は運がなかった。それはもう徹底的に見離されていた。無神論者の俺ですらそう言いたくなるくらいにその日の偶然は最悪だったと言える。
「っかしいなあ…」
「あぁ?何がおかしいって?」
「シズちゃんの行きそうな場所は今日は本当に避けたんだよ俺。いつもの取り立ての場所も分析したし幽君の家周辺も外した。シズちゃんの今までの行動から立ち寄った割合が二割を下回る場所を選んで、ちょっと遠回りだけどルートを組んだんだ。なのにこれどういうこと。」
「知るかよ。俺に分かるのは、手前が来んなっつったのに池袋に来た事実だけだ。なあイザヤくんよお?」
 現在地点は西池袋郊外。俺はほぼ十割の確率でシズちゃんが来ないと確信していた。なのに、居た。居やがった。もうこれは予想外を通り越して恨みしか湧いてこない。目前のバーテン服に舌打ちし、サングラスを睨み付ける。
「今日はシズちゃんと遊んでる余裕ないんだけど、ね」
「関係ねえよ。大体俺は遊んでるんじゃねえ。言ってんだろ。手前を殺したいだけだってなああ!」
 ああ相変わらずの馬鹿力だねシズちゃん。俺は振り上げられた道路標識の軌道をぼうっと眺めた。普段なら既に身体が動いて居るところだが、今日は無理だった。残念ながら俺はシズちゃんのような化け物体力は持っていないのだ。それが今日持てる情報を尽くしてシズちゃんを避けようとした理由。思えば今日、池袋に来る用事があった事実が既に最悪だったと気付いたのはその時になってからだった。
「って、臨也!?手前、」
 シズちゃんの声が妙に遠い。眼前でスレスレに止められた道路標識。それが、俺の目が映した最後の映像。視界がブラックアウトして、俺は意識を失った。
 有り体に言えば。夏風邪を舐めていた、ただそれだけの全く人間らしい理由なのは、素晴らしい笑い話だ。

 目を、開ける。その時点で俺にとっては既に予想外だった。何せシズちゃんの前で倒れたのだ。あっさり人生終了、俺は俺を失って二度と思考すら許されずに消滅するのだと意識を失う直前まで考えていた。不思議と走馬灯の一つすら流れなかったのは、人生に未練がない証拠だろうか。消えるのは恐ろしいが消えるなら仕方ない。そんな感じで。
 適当な自己分析と共に俺は現状認識を開始する。見たところ地獄には見えないから、取り敢えず死後の世界はないという俺の説が否定されたわけではなさそうだ。だとするとどこだここは?視界に映るのは天井。つまり室内。どこの?誰かの家だとするならば誰の?
 ――まあ、そんな自問自答すらも自分を誤魔化す虚実だとは分かっていた。分かってはいたのだが、現実から逃げられる限りは逃げたかったのだと言い訳をさせて貰いたい。猫が死んでいるかどうかは箱を開けるまで分からない。つまり、事実を突き付けられるまでは無限の可能性を模索することを許されているのだと。
 勿論、そんな幻想は一瞬後には粉々にされていたわけだが。
「…起きたか。」
「…ああ、最悪の目覚めになっちゃったけどね。」
「ならもう一度寝るか?永遠に。」
「是非ともお願いしたいね。実はこの現実が死より辛い拷問なんだ。」
「手前なあ…」
 現れたシズちゃんの手にはお盆が乗せられており、何が乗せられているのか、願わくば毒であって欲しいと俺は心底願った。シズちゃんは俺の自殺志願に不機嫌そうに顔を歪める。おかしいな。そこは喜んで殺す場面だよシズちゃん。いや死にたくはないんだけど。死にたいかな。駄目だ、自分の願望すら今の俺には分からない。
 シズちゃんはお盆をベッド脇のテーブルに置くと、ぴとりと俺の額に手を当てた。
「…熱は下がったみてえだな。寝たら下がるとか手前も結構体力あるじゃねえか?」
「…ねえシズちゃん。」
「あ?何だよ。」
「何故俺を気にかける?何故殺さない?何故看病なんかしてる?頭でも打った?」
「あのな、臨也。俺は倒れた人間殺すほど」
「でも相手は俺だ。」
 その時の俺は自分でも何を言っているのか、正直理解していなかった。脳細胞が活動を停止して、感情から直結したらしくない台詞だけを口が吐き出し続ける。
「シズちゃん。シズちゃんは俺が嫌いだろ?シズちゃんは俺を殺そうとしなきゃだめなんだよ。俺がそうであるように。でなければシズちゃんにとっての俺はどうなる?俺にとってのシズちゃんはどうなる?何もないならさあシズちゃん。俺とシズちゃんはもう終わりだよ。そうだろ?目を覚ましなよ。もう動けるし。さっきは付き合えなくて悪かったね。だから俺はシズちゃんを避けたわけだけどさ。殺し合わなきゃ。情けとか要らないから。そんなの掛けられた方が迷惑だ。だから会いたくなかった。さあシズちゃん。おいでよ。そこの冷蔵庫を持ち上げて御覧。今度こそちゃんと立ちはだかってあげるからさ。ねえ、シズちゃん、ほら、殺し合」
「泣くなら黙れ。」
「は?」
 唐突なシズちゃんの言葉に俺は首を傾げる。そして動かない頭でぼんやりと右腕を動かし、目元に触れて驚く。泣いた事実にではない。俺に涙というものが存在していたことに。
「…あっれ」
「大体手前はややこしく考え過ぎなんだよ。意味分かんねえ。馬鹿なら馬鹿って言えどうせ馬鹿だ。でもこれだけは言えるから取り敢えず黙って聞いとけ。」
 サングラスを通さない、シズちゃんの生の視線が俺を射抜く。俺はらしくもなく縫い止められて、不覚にもシズちゃんの言葉を聴いていた。
「手前が俺を嫌いでも、俺は手前が好きだ。勝手に捏造してんじゃねえノミ蟲野郎が。」
 ――世界が一瞬静止した。少なくとも俺はそう感じた。外でがなり立てる蝉の声、定期的に横切る車のエンジン音、正確に時を刻む時計の響き、空気を攪拌する扇風機の音…全ての音が掻き消えて世界が色をなくす。
 今、この男は、何を言った。
 頭に冷や水を浴びせかけられたかのように脳が回転を始める。世界が急速に色を取り戻し、俺は言葉の意味を理解するより先に疑問をぶつけていた。
「――シズちゃん。自分が何言ってるか、分かってる?」
「ああ。」
「君は俺が好きだと、そう言ったんだよ?」
「そうだな。」
「本当に頭がおかしくなったんじゃないの?ねえ、今まで俺が君に何をしてきたか思い出せる?俺は君の敵だよ?」
 一体何に必死なのやら俺は、何とかシズちゃんから否定の言葉を引き出したくてまくし立てる。分かっている。こんなの自分らしくない。相手に何かを言わせたいなら、もっと巧みに誘導して自然に口から出て来るようにするべきだ。それが俺のやり方だ。しかし今の俺は、頭がシズちゃんの言葉を理解して以来、冷静さを取り戻すことが出来ないでいる。
 シズちゃんはそんな俺をそれこそ不思議そうな目で見つめて、必死な俺がいっそ滑稽に思える位にいつもと同じ調子で言った。
「手前が俺の敵なのと、俺が手前を好きか嫌いかっつーのは、話が別だろ。」
「敵が好きだって?矛盾してる…!」
「そうかよ。」
 シズちゃんは、考えるのが嫌いなシズちゃんらしい面倒くさそうな表情で、でもトドメの一言を吐き出した。
「手前だって、そうなクセに。」
 嗚呼、その時確かに一つの世界が終わり、新しい世界が始まったのだ。



7/24 ヴァンデミエール(携帯サイト)の如月様宅茶会ログ+α
風邪ネタがパッと思いついたので。久し振りに我が家らしい静臨が書けたんじゃないかなーと。
まああれだ。直前までうみねこをやっていたという事実から何かを察して欲しい。