寂しがりな兎が死んだ

 動物に例えるなら、兎。
 寂しくて死んでしまう。そのくせそうなるまで鳴きもしない。何でもない風に見せて何事もないように生きて、こちらが何も気付かない内にある日突然動かなくなっている。
 そういう人間なのだ。折原臨也という男は。
「怖かったんだろうね。」
「何が。」
「独りになるのが。」
「は?コイツはいつも、独りだろうが。」
「そうじゃなくてさ。別に仲良い必要はないんだよ。闇の中で取り残されるのが嫌なんだ。例え相手が自分を心底嫌いでも、同じ場所に居るだけで良かったんだよ、臨也にとっては。」
 折原臨也という男は昔からどこか普通ではなかった。異常を突き抜けた異常。その場に居てもその存在はまるでブラウン管の向こう側のように遠く希薄で、浮いて見える。その人を食ったような笑みも、冗談みたいに美しい容姿の造形も、全て全てが現実にそぐわない。彼は神を信じないと言ったが、新羅は稀に、彼自身が神だからなのではないかと錯覚を覚えることがある。彼にとって自分達が暮らす世界はもしかしてチェス盤のようなもので、彼は遥か高みから自らの駒を動かして遊んでいるだけなのではないか。神とは元来卑怯で性悪で残虐なものだから、新羅としては臨也が本当に神でも特に疑う理由はない。
 しかし、と同時に新羅は思う。それはもしかしたらとてつもない孤独でしかないのではないだろうか。神がもしたった一人しかいないとしたら、それは永遠の孤独という地獄だ。比喩でもない。誇張でもない。自らの世界に味方は愚か敵すらもいない。右を向いても左を向いても一人きり。見えるのは、共有出来る世界など永遠にない駒達ばかり。
 だから、新羅は考える。例えばもし、そんな駒達の中にどうしても自分に従わない存在が現れたとしたら。無意識にでも自分の世界を共有してくれる存在が現れたとしたら。それは、臨也にとってメシアとなり得るのではないだろうかと。
「――それが、俺だってのか。」
 新羅の見立てを聞いて静雄は僅かに眉を顰めた。新羅が肩を竦めてそれに応える。
「さあ。俺は臨也ではないから、臨也の心中なんて全くすっかり厚貌深情、分からないよ。だからこれは俺の推測でしかないけれど。」
 でも、この臨也を見るとね。それも半分位は当たってるんじゃないかと思わないではない。
 新羅の続けた台詞を受けて、静雄は目の前の簡易ベッドに目を落とした。漆黒の髪。眉目秀麗をそのまま形にしたような風貌。柘榴石を思わせるような紅い目は、今は瞼の裏に隠れている。
 彼らの目前には今、件の折原臨也が横たわっていた。ちょっと前まではかなり衰弱していた様子だったのだが、現在の規則正しい呼吸を見るに殆ど持ち直したようだ。彼の回復力に驚くべきか、隣に居る闇医者の腕に驚くべきか、残念ながら静雄にその判断はつかない。

 話は数時間前に遡る。彼、折原臨也の秘書のようなことをしている矢霧 波江という女性から静雄に電話があった。内容は、ここ一週間で臨也が静雄の下を訪ねていないか、というものだ。聞けば、一週間前にマンションを出たきり臨也からの連絡が途絶えたのだという。彼女からしてみれば臨也の安否などそれこそ弟に対する興味の千分の一程も気にならないことではあったが、元の職業に戻れなくなった彼女にとって臨也はそれでも貴重な雇い主であることに変わりはない。このまま消息を絶たれても困るのだろう。
 当然のことながら、静雄もまた臨也の消息に対する興味もなければ、何かの情報も持っていなかった。だから波江にもそう返答した。波江の方も期待していたわけではなかったらしく、電話はあっさりと切れた。静雄はと言えば、波江には悪いが、最近の冷たい長雨を思いながら、この雨に凍えて臨也が死んでくれたならそれはそれは幸せなことだとすら考えていた。
 しかし、事態は良くない方へ急転直下した。偶々偶然、何の気なしに入った池袋のある裏路地で。静雄は彼の姿を見つけてしまったのだ。いつからそうしていたのだろう、彼は路地の端に座り込んで、傘も差さずに暗い空を見上げていた。服は身体を守るという機能を放棄したかのようにびしょ濡れで、髪からは絶えず雫が滑り落ちる。だのに彼は雨のことなど気付いていないかのようにそこに座り込んでいたのだった。
 見なかったことにする事も出来た。親の仇以上に大嫌いな折原臨也を殺す良い機会でもあった。しかし不思議なことに、或いはまた残念なことに、静雄は彼に声を掛けてしまった。平和島を名に持つ彼の、それが本質だとも言えるだろうか。
「臨也。」
 聞こえないかも知れないと感じた第一声、それでも流石は静雄と1対1で生き延びる折原臨也、呼び掛けると直ぐにゆるりとこちらを振り向いた。
「シズちゃん。」
 彼は何度言っても変えない、彼の呼び方で静雄の名を呼んだ。
「何やってんだ、こんなとこで。」
「あれれ、不思議だなあ。今までのシズちゃんなら今のタイミングは俺に殴りかかるところだよ?若しくはそのまま通り過ぎて俺が死ぬのを待つとかね、少なくともそんな風に普通に立ち止まって普通に声を掛けたりはしない筈何だけどなあ、不思議だなあ。それじゃあシズちゃん、まるで他の俺の愛する人間達と同じみたいじゃないか。これ位の行動は帝人君や正臣君だってするに違いないよ。目の前で知り合いが雨に打たれてたら普通にする行動だからね?普通普通普通普通普通普通普通、おかしいなあシズちゃんには絶対に相容れない言葉の筈なのになあおかしいなあ。」
 臨也は口を開いた途端にそれだけの台詞を一息で吐き出した。その顔はいつもの人を食ったような笑みで、言っている台詞の意味不明さも苛立たしさも全くいつも通りだった。だから静雄は言いたい言葉や殴りたい衝動を無理矢理抑え込んで、ただ一言、訊いた。
「何が言いたい。」
 すると臨也は突然泣き出しそうな顔で歪んだ笑みを浮かべて、ふらふらと立ち上がると静雄の両の目をまっすぐに覗き込んで、言った。
「雨に打たれたら消えてなくなれるのかなって。誰一人として俺を観測しなくなった世界から逃げられるのかなって。」
「臨也。」
「……向こう側に行かないでよ、シズちゃん。」
 その言葉を最後に臨也の身体がぐらりと傾いだ。気を失ったらしいその身体を地面に叩き付けられる寸前で受け止めるた静雄は、その冷たさに驚いた。もしや本当に一週間前からずっと、傘も差さず何も食べずただひたすら雨に打たれてこの場所にいたのではなかろうか。そんな突拍子もない想像に背筋を凍らせた静雄は、急いで馴染みの医者に電話を掛けた。
 ――そして、今に至る。
「罪歌事件からこっちさ、静雄もちょっと変わってきた所があるだろう?『力を使う』だなんてね、考えられなかったのに。」
「それが、か?」
「塵も積もれば山となるもんだよ。唯一自分と同じ世界を見ていてくれた筈の人間が、周りの駒と同じように自分と全く違う世界へ行ってしまうかも知れない。それが怖かったんじゃないのかな、臨也は。」
 だから。だから、再び一人になる位なら、消えてしまいたいと思ったのかも知れない。柄にもなく静雄に縋りたくなったのかも知れない。
「…バカが。」
「それは俺も同感だけど。」
「――誰がバカだって?」
 新羅が静雄の言葉に頷いた直後、眼下から響いた声に再び下を向くと、先程まで隠れていた柘榴石が今度はしっかりと光ってこちらを見ていた。
「起きたのか。」
「バカとか、新羅はともかく単細胞のシズちゃんには一生言われたくない。」
「俺もノミ蟲如きにバカ呼ばわりされる謂われはねぇ。」
「アハハ」
 笑い声が乾いている。臨也のことなので、目を開ける前から2人の会話を聞いていたに違いない。静雄の臨也を邪険に扱う台詞が、或いは同情に聞こえたのかも知れない。
 全く嫌になる。これだから、無駄に理屈をこねる、この神様気取りは。
「臨也、言っておくけどな。」
「何、シズちゃん?これ以上俺を弱らせてどうしようっての?」
「俺は、」
「ああ殺すのかな。シズちゃんは俺が大嫌いだもんねぇ。それならいいや、凄い初めて利害が一致しそうだよ。」
「…あのな。人の話を」
「ならさっさと殺してよシズちゃん、シズちゃんなら一撃で済むだろ?あ、でも痛いのはヤだからそこだけお願」
「手前は人の話を聞けっつってんだろうがぁッッ!」
 バキッという嫌な音はそれは見事に壁に備え付けの棚が外された音だった。
 2人の様子を眺めていただけだった新羅がそこで初めて口を開く。
「静雄、頼むから俺とセルティの家を壊さないでくれないかな。あと、それは一応病人だから。」
 沈黙が数秒。静雄の振り上げられていた腕は奇跡的に止まり、ひとまず大惨事は回避された。
 そして何事もなかったかのように臨也が口を開く。
「…で、何なのシズちゃん。」
 その声で我に返った静雄は、手に持った棚を床に下ろして、改めて臨也に向き直った。
「俺は手前が嫌いだ。」
「うん、知ってる。」
「だから手前を殺すのは俺だ。それまでは死んでも敵で居てやる。」
「何それ。改めて言うことじゃないだろ。」
 臨也は静雄の言葉にそう憎まれ口を叩いて笑って、それから再び目を閉じるとぽつりと言った。
「だから、シズちゃんは大嫌いだ。」
 ありがと。