「不思議の国の臨也」サンプル

 何故、何時からそこに居たのかは分からない。
 気が付くと、臨也はそこに居た。池袋や新宿どころか、現代かどうかすらも疑わしい。周囲にはビルはおろか、家の一軒すらもなく、道の舗装もされていない。目前には木が生い茂る森が聳え、臨也の立っている道は真っ直ぐにその森の中央を突っ切っていた。
「…どこだ?」
 まず臨也の口をついて出たのはそんな真っ当な疑問だった。自分自身の姿を確認してみるが服装にも特に変わった様子はなく、どうやらおかしいのは周囲の風景だけだ。
 臨也は人がいない状況に不安を覚えるほど殊勝な人間でもなかったが、しかし彼はなまじ頭が良かったため、普段自分が生きている世界のことをよく知っていた。だからこそ彼はこの「分からない」状況に不快感を覚え、少しでも情報を得ようとぐるりと周囲を見回す。眼前に広がる森の奥へと目を凝らしたとき、その視界に何か白い影が映り込んだ。
 一体何者かと更に目を凝らす。どうやらそれは白いコートを纏った人影のようで、臨也に対し背を向けるようにして立っているようだった。周囲に対してあからさまに浮いているその人影は明らかに怪しくはあったのだが、何はともあれ情報を得ないことには何も始まらない。
 しかし、この場所が臨也の知らない場所であることは間違いないのだ。いつ何が起こってもおかしくはない。臨也は確かに裏社会にどっぷり浸かった男ではあったが、死を恐れぬ蛮勇を持っているわけではなかったから、ゆっくりと慎重に。その森の中へ続く道を一歩、踏み出した。
 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。五感の全てを鋭敏に研ぎすませて森の中を白い人影に向かって進んでいく。人影は臨也には気付いていないのか、先ほどから変わらず背を向けて立ち止まったままだった。それでも全身に染み渡らせた警戒は解くことなく、彼にしては珍しく一言も発さず、表情も一切浮かべていない。静かに、ただ淡々と。針の一本が落ちる音すら聞き逃さないように。たった一つの情報も取り逃すことのないように。
 いつも周囲の情報を遊ばせて観察することを楽しむ青年は、久しぶりに何も知らないという状況に身を置いていた。
 森の小道であるという以外なんの変哲もない一本道。それは先の見えないひどく長い道程のように思えていたのだが、実際歩いてみれば思ったよりずっと短く、臨也が白い人影のすぐ近くにたどり着いた時にはもうすぐそこに森の出口の光が見えていた。どうやらこの森を深く見せていたのは鬱蒼と生い茂る木で妙に差し込まない日の光と、出口をカモフラージュしていたこの人物にあるようだ。
 ――で。
 その白い背中を見つめて、臨也は心中で一人ごちる。
 ――何故微動だにしない。
 臨也は今やその人物に手を伸ばせば届くほど接近していた。道には当然木の葉が落ちていたし、足音は聞こえていたはずだ。しかもその足音はこの人物にしてみればすぐ背後で止まったはずで普通の人間なら不審に思って振り返るか、そうでなくとも何か反応くらいは示すはずの距離である。しかし目の前の人物は最初に森の外から見つけたときと同じ場所、同じ姿勢で、およそ動いたようには見受けられなかった。
 一瞬臨也はもしや死体かとも考えたのだが、それにしては温かみがある。臨也は人間が好きだったし、職業柄死体を見慣れてもいた。なのですぐにその説を否定し、ならばどうしたものかと思案する。なにせ身一つでいつの間にかこの場所にいたわけで、頼りとなるのはコートに忍ばせたナイフの数本くらいなものである。この先どうなるかもわからない状況で簡単に出すのは躊躇われたし、かといって迂闊に動くのもどうだろうか。臨也は臆病ではなかったが死を恐れていたから、殊更に用心深く考える。相手の危険性から人外の可能性まで考えた上で――ポケットのナイフに手をかけたまま、口を開いた。
「やあ」
 心の内などかけら一つ明かさない、いつも通りの笑みを浮かべて、いつも通りの爽やかな声で。
「何してるんだい、こんなところで?」
「まってたんだよ」
 するとそれまで微動だにしなかったその人物がようやく反応を示した。臨也は意識的にナイフを強く握り込み、けれど同じ調子で更に問う。
「へえ、相手は昔の恋人かい?」
「ううん」
「なら、死んでしまった友達かな」
「臨也くん――」
 その時、臨也の表情も空気も変わりはしなかった。自分を演出することに長けた彼は、相変わらず全てを見透かしたような笑みを浮かべてその事実を受け止めた。
 しかし、その実彼は確かに驚いていた。目の前の人物が発した言葉にではない。いや、その口から自分の名前が出たことにも驚きはしたのだが、それ以上に、彼は振り返ったその人物の容姿に驚いていた。
「――ようこそ、おれたちの世界へ。待ってたよ」
 白いコートに、ヘッドフォン。格好こそ全く違ったが、その顔は確かに――臨也だった。
 鏡の中。自分の顔が、自分のしない笑顔を作る。
「おれはサイケ。サイケデリック=ドリームス。臨也くんの案内役なんだ、よろしくね!」
 その瞬間、全ての常識は地に還った。